オペラ

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オペラ歌劇 英、伊:opera)は演劇音楽によって構成される舞台芸術である。

概要[編集]

オペラは舞台上で衣装をつけた出演者が演技を行う点で演劇と共通しているが、台詞だけではなく、大半の部分(特に役柄の感情表現)が歌手による歌唱で進められることを特徴とする。歌手は器楽合奏により伴奏されつつ歌い演じる。伴奏は、多くの場合交響楽団規模の編成に及ぶ。

初期のロマン派までのオペラでは、歌唱には二つの様式がある。ひとつはレチタティーヴォ(朗唱)で、会話を表現するものであり、普通の朗読に近い抑揚で歌われる。もうひとつはソロ(独唱)で歌われるアリア(詠唱)や複数の歌手が歌う重唱(アンサンブル)あるいは大勢で歌う合唱で、通常の歌唱である。これらの様式はみな伴奏を伴う。

レチタティーヴォは、古典派の時代まではチェンバロのみで伴奏されるレチタティーヴォ・セッコと、管弦楽伴奏によるレチタティーヴォ・アッコンパニアートがあり、前者は会話的な抑揚で語るように歌う。後者は直後のアリアや重唱の導入として置かれることが多い。ロマン派時代のオペラではレチタティーヴォ・セッコはほとんど見られなくなった。

アリアは主に登場人物の感情を表現するもので、古典的なオペラではアリアを歌う間はドラマの進行が静止することもあるが、時代が下るにつれてアリアでも登場人物の感情の推移を通じてドラマを進めるようになった。アリアはおおむね大規模なもので、主要な登場人物について割り当てられる。より小規模なものをアリオーソ、カンツォネッタ、ロマンツァなどと歌の性格によって呼ぶこともある。

役柄どうしの対話は重唱で行われ、群集などが登場する場面では合唱も加わることがある。特に各幕の終曲(フィナーレ)ではほとんどの登場人物による重唱や合唱で構成される場合がある。

これらの独唱・重唱・合唱について、古典的なオペラでは各々が独立して作曲されており、一連番号が付けられていたことから「ナンバーオペラ」と呼ばれ、各ナンバーの間は前述したレチタティーヴォによってつながれる。各曲が独立しているため、上演時の都合によりナンバー単位で省略されたり、作品の作曲家または別な作曲家により、代替あるいは挿入用のアリアが加えられたりすることもあった。しかしロマン派の半ば以降にはナンバーによる分割が廃され、各幕を通して作曲されるようになった(もっとも上演の際に慣習的なカットを行うことがある)。また、アリアとレチタティーヴォも明確には区別されなくなっていった。

ジングシュピール、オペラ・コミック、オペレッタ、サルスエラなどの様式では、レチタティーヴォ・セッコに代わりせりふを用いて劇が進められる。

歌手、および歌手の演ずる役柄はそれぞれの音高(声域)で分類される。男性歌手(男声)は声域が低い順にバスバスバリトンバリトンテノールカウンターテノールに、女性歌手(女声)は声域が低い順にアルトまたはコントラルト、メゾソプラノソプラノに分類される。

また、歌手の声の質も役柄との関係が深く、声質によって歌えたり歌えなかったりする役柄は多い。たとえば、ベルリーニのノルマ、ヴァーグナーのヴォータンやブリュンヒルデ、ヴェルディのオテロやファルスタッフ役の良い歌手を見いだすのはいつでも難しいとされる。

オペラは他の多くの芸術形態から成立している。基本は音楽であるが、対話により演じられることから、演劇の要素を持つ。また、上演する上で重要な要素と考えられる視覚的な舞台効果を得るため、絵画の要素も用いられている。こうした理由で、著名なオペラ作曲家リヒャルト・ヴァーグナーは、このジャンルを「総合芸術」(Gesamtkunstwerk)と呼んだ。

歴史[編集]

オペラの成立[編集]

「オペラ」(opera)という単語はイタリア語で「仕事」「作品」を意味し、この語自体は同義のラテン語opus」(単数属格形 operis)の複数形主格「opera」に由来する。今日「opera」は単独で歌唱によって進行される演劇ないし楽曲作品を意味するが、元来は「opera musicale」(音楽的作品)と呼んだものの省略から、この語義が生じた。

ルネサンス後期の16世紀末、フォレンツェで古代ギリシャの演劇を復興しようという動きが始まった。ギリシャ悲劇を模範に、歌うようなせりふを用いる劇が考えられた。今日、オペラとみなされる知られる限り最古の作品は、1597年ごろのヤコポ・ペーリ(1561~1633)による『ダフネ』 (Dafne)であるが、作品は現存しない。のちのペーリの作品である『エウリディーチェ』は1600年以降に作曲されたもので、今日に残る最初のオペラ作品である。

ペーリはしばしばオペラの発明者であると考えられているが、今日でも上演される最古のオペラは1607年マントヴァで初演されたクラウディオ・モンテヴェルディ(1567~1643)作曲の『オルフェオ』である。この作品では先駆者の様式に従いながらも、調性や強弱の変化による緊張感を高めた、より劇的な表現が見られる。モンテヴェルディは後にヴェネツィアサンマルコ聖堂で楽長の地位を得、同地に新設された専用のオペラ劇場のために優れた作品を生み出す。この時期にはイタリア各地でオペラが上演されるようになり、18世紀に掛けてナポリで隆盛を極めた。様式は朗唱だけでなく歌謡的なアリアの比重が高まり、伴奏の規模も拡大して、より充実した音響効果がみられるようになる。衣装や舞台装置も徐々に複雑できらびやかなものとなり、オペラ劇場は王侯貴族や富裕な市民の社交と娯楽の場としても発展した。

オペラ・セリア[編集]

もともとギリシャ悲劇の再来を目指した当時のオペラは後にオペラ・セリア(正歌劇)と呼ばれるようになる(セリアは英語の「serious」の意)。題材はやはりギリシャ神話に求められることが多いが、ローマ時代などの人物を扱ったものも見られる。

オペラ・ブッファ[編集]

これに対し、もっと世俗的な内容の作品がオペラ・ブッファ(喜劇オペラ)である。もともとは、3幕もののセリアの幕間劇として演じられたコメディが独立し、規模拡大したものである。初期の幕間劇で今日まで残るものとして、ペルゴレージ(1710~1736)の『奥様女中』(1733)がある。18世紀には独立されたジャンルとして発展し、パイジエッロ(1740~1816)、チマローザ(1749~1801)、サリエリ(1750~1825)などが多数の作品を残した。中でも、モーツァルト(1756~1791)がダ・ポンテの台本に作曲した『フィガロの結婚』(1786)『ドン・ジョヴァンニ』(1787)『コジ・ファン・トゥッテ』(1790)が有名である。

詳細はオペラ・ブッファの記事を参照。

グルックによるオペラ改革[編集]

18世紀前半のバロック時代後期のオペラには、ドイツ出身でイギリスで活躍したヘンデル(1685~1759)や、フランスのラモー(1683~1764)などに優れた作品があったものの、その他の多くには、特に本場イタリアでは、カストラートをはじめとした人気歌手たちの声と技巧をひけらかすことを第一の目的とし、筋の方は支離滅裂で珍妙なものも増え、劇としては堕落の様相を呈する傾向があった。また、バロックオペラのスタイルも誕生から百数十年が経ち、制度疲労と硬直化を見せるようになった。そうした状況のなか、18世紀後半、古典派音楽の台頭とともに登場したのがドイツ出身のグルック(1714~1787)である。彼は、歌手のためにオペラがあるのではなく、オペラのために歌手が奉仕するような、あくまで作品とドラマの進行を第一とするような方向にオペラを再び立ち返らせ、ドラマの進行を妨げる余計な要素を一切廃したスタイルのオペラを書いた。当初はオーストリアヴィーンで、後期はパリで活躍するが、当然のことながら旧守派と激しく衝突し、ことにパリでの争いは歴史的にも有名である(後述)。改革されたオペラの第一弾は、ヴィーン時代の1762年に初演された『オルフェオとエウリディーチェ』であった。パリ時代の作品には、『アウリスのイフィゲニア』(1774)などがある。

彼の「オペラ改革」は、後の時代に大きな影響を与えた。

イタリアオペラとドイツオペラ[編集]

何世紀もの間、イタリアオペラが正統派オペラの形式であり、多くのオペラは、作曲者が主に英語やドイツ語を話していたとしても、イタリア語の台本に作曲された。

18世紀においてもなお、イタリア音楽こそが最高のものであるという認識が残っており、どこの宮廷でもイタリア人音楽家をこぞって重用した。その一方で今日名を残す多くのドイツ人作曲家が登場したが、たとえばグルックはイタリア語、フランス語のオペラは書いたが、ドイツ語のオペラ作品は書いていない。またヘンデルは、多くのオペラを書いたが、ドイツ語のオペラは一曲のみである。ドイツの宗教的・国民的気風が快楽主義的なオペラという形式自体を嫌った側面もある。

ドイツオペラの誕生と興隆[編集]

最初の重要なドイツ語のオペラは、時代をさかのぼること17世紀前半、シュッツ(1585~1672)の「ダフネ」(1627年)と目されているが、楽譜は現在では失われてしまっている。

17世紀後半になると、ドイツ語圏各地に宮廷劇場ができるが、1678年に三十年戦争(1618年~1648年)の影響の少なかったハンブルクに公開オペラハウスが建設されると、ドイツ人作曲家によるドイツ語オペラが数多く上演されるようになる。ここで活躍した作曲家にはタイレ(1646~1724)、クッサー(1660~1727)、カイザー(1674~1739)、マッテゾン(1681~1764)などがいるが、特に有名なのはテレマン(1681~1767)であろう。彼は18世紀前半に多くのドイツ語オペラを書き、それらは大いに人気を博した。

18世紀の後半になると、フランスのオペラ・コミックやイギリスのバラッド・オペラの影響を受け、喜劇的な内容を持ち、レチタティーヴォのかわりに台詞の語りをもったジングシュピールが生まれる。この様式はJ・A・ヒラー(1728~1804)によって完成され、その後ハイドン(1732~1809)やディッタースドルフ(1739~1799)によって、より音楽的に充実したものとなった。

ドイツ語オペラにおける次の重要な作曲家はモーツァルト(1756~1791)である。なかでも死の年(1791年)に書かれた『魔笛』は、ジングシュピールの様式による非常に優れた作品である。以前のジングシュピールがせりふによる劇の進行のところどころに歌を配した文字通りの「歌芝居」である傾向が強いのに対し、モーツァルトがヴィーン時代の初期に作曲した『後宮からの誘拐』(1782年)は、すでに堂々たるオペラになっている(音楽が主、語りが従)。伝えられる逸話によれば、上演に接した神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルトに対し「音符が少々多い」と感想を述べたところ、彼は「音符はまさに必要なだけございます」と答えたという。真偽はともかく、このジャンルに対する一般の認識と、作曲者の対抗心が対比されており興味深い。

このドイツ語オペラの流れは、その後も19世紀に入ってベートーヴェン(1770~1827)の『フィデリオ』(1814)を生むが、真にドイツオペラをオペラ界の主要ジャンルとして確立させたのは、ロマン派の作曲家ヴェーバー(1786~1826)で、『オベロン』(1826)や『魔弾の射手』(1821)といった作品は、E.T.A.ホフマン(1776~1822)、シュポーア(1784~1859)やマルシュナー(1795~1861)の作品とともに、イタリアのセリアともブッファとも異なるドイツ・ロマンティック・オペラの特質を表しており、これはやがてヴァーグナー楽劇へと至ることになる。一方、ロルツィング(1801~1851)やフロトウ(1812~1883)らはフランスでさらに発展したオペラ・コミックをジングシュピールの伝統と融合させたドイツ式オペラ・コミックを創り上げた。また同じくフランスで生まれたオペレッタウィーンで大衆的な支持を得て発展した。一方でヴァーグナーの登場もあり、ドイツ語圏のオペラは硬軟両面で急速に興隆していく。

とはいえ、ドイツ・オーストリアにおいてはオペラを全く書かなかった、あるいは目ぼしい作品を残さなかった大作曲家としてメンデルスゾーンシューマンリストブラームスブルックナーマーラーらがおり、前世紀のバッハを含め、むしろこちらの方が多数派であることがわかる。ベートーヴェンにせよ1曲だけであり、それも燦然たる代表作とは言いがたい。その点、オペラ以外の作品が希少なぐらいなイタリアとは事情が異なる。モーツァルト、ワーグナー、R・シュトラウスの三巨峰がそびえ、魅力的なウィンナオペレッタの数々がふもとを彩るとはいえ、少なくとも作品系譜としてはイタリアオペラに一歩を譲る位置づけといえよう。

ただし、上演は別である。今日ドイツだけでは100もの歌劇場を擁し、オーストリアとスイスを別勘定としてもイタリアの3倍を超える上演数を誇るレパートリー・システムを取り入れ、多額の補助金で常時新作の世界初演が行われている世界最大の密集地でありオペラ大国である。

フランスオペラ[編集]

イタリアでナポリ派オペラが発展していた17世紀半ば、フランスではリュリ(1632~1687)により、フランス語で歌われる独立したフランスオペラの伝統が創始された。この伝統は18世紀前半にはラモー(1683~1764)に受け継がれ、豊かに発展した。18世紀中期になると、イタリアのオペラ・ブッファの影響をうけ、コミカルな内容を中心とし、レチタティーヴォの代わりに語りをもったオペラ・コミックが登場し、次第に人気を集めるようになる。1752年にイタリアから来たオペラ団がパリでペルゴレージの『奥様女中』を上演すると、ラモーに代表される伝統的フランスオペラと、イタリアのオペラ・ブッファやその影響で生まれたオペラ・コミックのどちらが優れているかと言う点に関し知識人たちの間で大いに論争となったことがあったが、これは「ブフォン論争」と呼ばれる。この論争の後、オペラコミックはますます人気を高めるが、この論争で反ラモーの代表的存在だった、思想家としても有名なルソー(1712~1778)は『村の占い師』(1752)というオペラ・コミックを書いて自らのオペラ思想を世に問うた。

1773年にドイツ出身でヴィーンで活躍していたグルックがパリにやって来て、彼の「オペラ改革」をフランスオペラに持ち込むと、今度は旧来のイタリアオペラを支持しイタリアのピッチンニ(1728~1800)を擁した「ピッチンニ派」と、グルックの新式オペラを支持する「グルック派」の間で、ブフォン論争以上の激しい争いが起き、時に武力抗争にまで発展したと言われている。

やがて18世紀の晩期になると、オペラ・コミックはフランス革命期の社会的風潮の影響を受けてか、喜劇的なものよりも英雄的で雄大な内容をもつものに変化し、伝統的なオペラとの違いは単にレチタティーヴォのあるなし程度になってゆく。「革命オペラ」「恐怖オペラ」「救出オペラ」などとも呼ばれることのあるこのようなオペラ・コミックの代表者には、ゴセック(1734~1829)、メユール(1763~1817)、イタリア出身のケルビーニ(1760~1842)、などがいる。また、ドイツのオペラであるが、ベートーヴェンの『フィデリオ』もこの「救出オペラ」の一種である。後期のグルックがパリで活動したせいもあり、これらのオペラ・コミックを含めて18世紀晩期のフランスオペラはグルックの「オペラ改革」の影響を強く受けている。ケルビーニと同じくイタリア出身のスポンティーニ(1774~1851)はそうしたグルックのあとを継ぐような、そしてより大規模なオペラ・セリアを書き、後のグランド・オペラの先駆となった。

19世紀前半になると、せりふによる語りのないフランスオペラは、5幕形式でバレエを含む大規模な形式のグランド・オペラとよばれる様式となった。代表的な作曲家はマイアベーア(1791~1864)である。ヴァーグナーヴェルディもパリで自作を上演する際にはわざわざバレエを追加したくらいである(『タンホイザー』と『ドン・カルロ』)。この様式の大家としてはマイアベーアが人気を博し、『アフリカの女』(1842)『ユグノー教徒』(1836)など、今日でも上演される作品を残している。

オペラ・コミックが喜劇的ではなくなってしまったので、新たな喜劇的オペラを望むパリ民衆の要望に答えて、より大衆的な通俗性を持ったオペレッタが生まれた。特にオッフェンバック(1819~1880)の『地獄のオルフェ』(1858)(『天国と地獄』)は国際的に爆発的な成功を収めた。オッフェンバックはヨハン・シュトラウス2世にオペレッタの創作を勧め、ウィンナ・オペレッタ誕生につながっていく。

その後オペラ・コミックの方でもビゼー(1838~1875)の『カルメン』(1875)などの傑作が生まれている。

なお、マイヤベーアとオッフェンバックは元々ドイツ人であるが、作品はあくまでパリを拠点にフランス語で書かれたためフランスオペラとして扱われる。ただし、オッフェンバック作品は本人の生前からウィーン上演が好評を博したこともあり、死後はドイツ語訳上演のほうが多くなっている。

19世紀前半に圧倒的人気を誇ったグランド・オペラも、その内容の希薄な大袈裟さが次第に飽きられ、1850年頃、より内面的な叙情性をもったドラム・リリクが現れる。グノー(1818~1893)とトマ(1811~1896)がその代表である。典型的な例としては、グノーは『ファウスト』(1859)、トマには『ミニョン』(1866)などがある。

このほかよく上演されるフランスのオペラ作品として、サン=サーンス(1835~1921)の『サムソンとデリラ』(1877)、マスネ(1842~1912)の『マノン』(1884)『ウェルテル』(1892)、シャルパンティエ(1860~1956)の『ルイーズ』(1900)、ドビュッシー(1862~1918)の『ペレアスとメリザンド』(1902)などがある。

19世紀前半のイタリアオペラ[編集]

19世紀ヨーロッパの音楽界では、ロッシーニ(1792~1868)が『セビリアの理髪師』(1816)『アルジェのイタリア女』(1813)『チェネレントラ(シンデレラ)』(1817)などのオペラ・ブッファを量産するなど、引き続きイタリアオペラが主流の座を占めた。ヴィーンでもベートーヴェンはロッシーニの人気の足元にも及ばぬ状況であった。またオペラ・セリア様式の作品も、題材はギリシャ古典から中世以降に下った時期になったが悲劇として継続しており、ドニゼッティ(1797~1848)の『アンナ・ボレーナ』(アン・ブーリン)(1830)、『マリア・ストゥアルダ』(メアリー・スチュアート)(1834)、『ランメルモールのルチア』(ウォルター・スコット原作)(1835)などが知られる。ベッリーニ(1801~1835)もまた『清教徒』(1835)『ノルマ』(1831)『カプレーティ家とモンテッキ家』(ロミオとジュリエット)(1830)などのセリアの作曲で知られる。もっとも、ドニゼッティはブッファの傑作『愛の妙薬』(1832)でも有名であり、ロッシーニも『タンクレーディ』(1813)『オテロ』(シェイクスピア原作)(1816)、『湖上の美人』(ウォルター・スコット原作)(1819)、『セミラーミデ』(ヴォルテール原作)(1823)といったセリア作品や、『泥棒かささぎ』(1817)といったセミ・セリア作品及び『グリエルモ・テル』(シラー原作)(1829)でも評価を得ている。

ヴァーグナー[編集]

オペラの発展は、ドイツではヴァーグナー(ワーグナー)(1813~1883)、イタリアではヴェルディ(1813~1901)によって、19世紀に最も劇的な段階を迎えた。

ヴァーグナーは、通奏低音で伴奏される比較的小音量のレチタティーヴォに、フルオーケストラ伴奏によるアリアがところどころ挿入され、アリアの終了の度に熱心な聴衆の拍手喝さいにより演奏が中断されるという、伝統的なオペラの形式を拒んだ。それに代わって、レチタティーヴォとアリアが混然一体となり、また常にオーケストラにより伴奏されるという、通して歌われる様式を導入した先駆者となった(このため拍手は幕間にだけ行われるようになった)。さらにヴァーグナーはライトモティーフを大々的に使用した。ライトモティーフは、かつてヴェーバーの使用例もあるが、物語中の登場する登場人物、道具や概念などを音楽で描こうという音楽的な工夫である。例えばある人物が舞台に登場するときや、舞台にいなくても他の登場人物がその人物について触れるときに、その人物を表すライトモティーフを奏でることであたかも映像を見ているような描写的効果を得ている。

ヴァーグナーはまた、楽劇とよばれる独特のオペラで作品の大規模化ももたらした。最初の楽劇である『トリスタンとイゾルデ』(1859)は、ただ単にオペラを革新したのみならず、その革新的和声語法は調性の崩壊へと道を開いた意味で、西洋音楽史全体から見ても非常に重要な作品である。

より重厚な響きを求めて大編成化したオーケストラに歌唱が埋没せぬよう、聴衆が舞台のみに集中して鑑賞するように、彼は自分自身の作品を上演する専用の劇場を必要とするに至り、バイエルンルートヴィヒ2世からの資金援助を受けて、オーケストラ・ピットを舞台の下に押し込めるという特異な構造の劇場をバイロイトに建設した。そこで上演される『ニーベルングの指輪』(1854、1856、1871、1874)は4つの楽劇に分かれた巨大作品で、4夜を費やして演奏される。これを通して観ると約15時間程になり、空前絶後の大規模作品である(現在はシュトックハウゼンの『光』という1週間を要する作品があり、規模の上ではこれを上回る。後述)。

ヴァーグナーの楽劇の題材は北欧神話や中世の物語を扱っており、その意味ではオペラ・セリアの延長線上にあるともいえる。中世ドイツのマイスター(職人の親方たち)を題材にした『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(1867)は唯一の喜劇的作品であるが、ロッシーニの喜劇に比べるとはるかに生真面目ともいえる。

ヴェルディ[編集]

ヴェルディはヴァーグナーのような音楽の革命家ではなかったが、オペラ・セリアの伝統的形式を継承発展させる形で作曲した。彼のオペラの登場人物は、まだ市井の一般人ではないが、神話的人物や叙事詩的英雄というわけでもなく、現代的な(彼の同時代という意味で)オペラセリアを再構築したということもできる。彼は初期の作品で、イタリア独立運動を支持する人々の愛国心を高揚させて大いに支持を受けた。ついで、登場人物の人間性に鋭く迫って劇的に表現する作風を確立し、音楽としてもドラマとしても完成度の高い中期の傑作群を創作した。グランドオペラ風の『アイーダ』(1871)と(オペラではないが)死者のためのミサ曲『レクイエム』(1874)を最後にいったんリタイアしたあと、作曲家ボーイト(1842~1918)らのすすめで再度筆をとり、晩年の傑作『オテロ』(1887)、『ファルスタッフ』(1893)をのこした。

ヴェリズモ・オペラ[編集]

ヴェリズモ・オペラは、イタリアで発生したヴェリズモ文芸運動がオペラに波及したものとみることも、自然主義文学のオペラへの影響とみることもできる。そこでは市井の人々の生活が、病苦・暴力といった暗部をも含む形で描写される。マスカーニ(1863~1945)の『カヴァレリア・ルスティカーナ』(田舎騎士)(1890)は、シチリアの小村における悲劇であり、ヴェリズモ・オペラの初期の傑作である。またレオンカヴァルロ(1857~1919)の『道化師』(1892)では、現実と仮想世界との区別の付かなくなった道化師カニオが舞台上で妻を殺してしまう。この傾向のオペラは1890年代から20世紀初頭にかけて多くの模倣・追随者を生んだ。

ロマン派オペラの終焉[編集]

19世紀終盤から、20世紀初頭にかけて、ロマン派オペラはヴェルディ、ヴァーグナーを受け継ぎ最後の花を咲かせる。ドイツのリヒャルト・シュトラウス(1864~1949)は、『サロメ』(1905)、『エレクトラ』(1908)で大きな反響を得た。前者の官能を刺激する色彩的な音楽は賛否両論を生み、後者の大胆な和声は伝統的な響きに慣れ、それらを好む聴衆からは猛反発を受けた。しかし、R.シュトラウスのオペラ作家としての地位は固まり、詩人ホフマンスタールとともに様々な新機軸を出した。後年、円熟した擬古的な作風の『ばらの騎士』(1910)『アラベラ』(1932)『ナクソス島のアリアドネ』(1912)などで音楽的完成度と大衆的な人気をともに確保して、モーツァルト・ヴァーグナーと並ぶ「ドイツの3大オペラ作曲家」と呼ばれるようになった。しかし、晩年の作品はロマン派の最盛期を過ぎた残照のような位置づけであることは否めない。ほかに、ドイツ・ロマン派の最後を飾るオペラとしては、『ヘンゼルとグレーテル』(1893)で知られるフンパーディンク(1854~1921)やヴァーグナーの息子ジークフリート・ヴァーグナー(1869~1930)によるメルヘン・オペラ、またそれ以外にプフィッツナー(1869~1949)の作品がある。また、ドイツ・ロマン派と近代のオペラの架け橋的存在として、ツェムリンスキー(1871~1942)、シュレーカー(1878~1934)、コルンゴルト(1897~1957)がいるが、このうちシュレーカーとコルンゴルトは、当時はR.シュトラウスに匹敵する人気を誇っていた。

イタリアのジャコモ・プッチーニ(1858~1924)は、ヴェリズモオペラの影響を受けつつも、イタリアオペラの伝統に沿った作品を書いた。彼は庶民的な題材と美しいメロディをほどよくバランスさせ、親しみやすいなかにも完成度の高い作品群を作って人気を博した。出世作『マノン・レスコー』(1893)と続く『ラ・ボエーム』(1896)は好評を持って迎えられ、彼の地位を確立した。『蝶々夫人』(1904)では歴史的な失敗を喫したが、今日ではあらゆるオペラのなかでも人気の高い作品として知られるようになった。

R.シュトラウスとプッチーニは、ロマン派のオペラの幕を引いたといってよい。その後、演劇と音楽が協調してできたオペラの役割は映画、あるいは今日ではテレビが担うことになる。

諸国の国民的オペラ[編集]

ロシアの国民主義のオペラはグリンカ(1804~1857)により創始され、ロシア5人組の作曲家たちによって継承発展された。ムソルグスキー(1839~1881)の『ボリス・ゴドゥノフ』(1874)、ボロディン(1833~1887)の『イーゴリ公』(1890)は名高い。また、リムスキー=コルサコフ(1844~1908)は『金鶏』(1907)『サトコ』(1898)など多数の作品を残した。チャイコフスキー(1840~1893)は『エフゲニー・オネーギン』(1878)や『スペードの女王』(1890)で知られるが、彼のバレエ音楽とともにむしろ西欧風の作品といえる。20世紀に入ると、ショスタコーヴィチ(1906~1975)が『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1934)という近代オペラの傑作に数えられる作品を生んだ。

チェコでは19世紀後半に、ヴァーグナーの強い影響を受けていたスメタナ(1824~1884)が国民主義オペラを書き、ドヴォルジャーク(1841~1904)、ヤナーチェク(1854~1928)がその流れを引き継いだ。スメタナは『売られた花嫁』(1863)『リブシェ』(1872)が知られている。ドヴォルジャークは『ルサルカ』(1901)が有名だが、他にも多くのオペラを書いている。ヤナーチェクの『イェヌーファ』(1904)『利口な女狐の物語』(1924)『死者の家から』(1930)などは、20世紀に入って完成された作品だけあってより近代的な感覚のオペラとなっている。

またスペインではサルスエラとして知られる、民族音楽風味を取り入れた独自様式のオペラが作られた。これはフランスやドイツ・オーストリアのオペレッタに近い位置づけである。アルベニス(1860~1909)やファリャ(1876~1946)も作品を残している。

近代のオペラ[編集]

ロマン派の終了後の20世紀前半のオペラは、当初はバルトーク(1881~1945)の『青髭公の城』(1911)やヒンデミット(1895~1963)の『殺人者、女達の望み』(1919)のような表現主義の傾向を持っていたが、第一次世界大戦が終了してその影響が消え、平和な発展の時代を迎えると、新古典主義の台頭とともにドイツでは「時事オペラ」と言うスタイルのオペラが興った。表現主義オペラが個人の内面的葛藤を中心に描くのに対し、時事オペラは、現代の平凡な日常生活における人間関係を客観的に、醒めた視点から異化の手法なども交えて描くもので、ジャズカバレットレヴューといった当時の大衆音楽、芸能の要素も取り入れられ、従来のオペラというジャンルを超えるような面も持っていた。代表的な例の一つであるクレネク(1900~1991)の『ジョニーは演奏する』(1927)はヴィーンで大ヒットし、他にヴァイル(1900~1950)の『マハゴニー市の興亡』(1927)『三文オペラ』(1928)、ヒンデミットの『行ったり来たり』(1927)『今日のニュース』(1929)などがある。

その後、時事オペラの流行が終わると、ヒンデミットは『画家マティス』(1935)『世界の調和』(1957)という、より生真面目な内容のオペラを残している。

また、ストラヴィンスキー(1882~1971)は新古典主義時代に『夜鶯』(1914)『エディプス王』(1927)『放蕩者のなりゆき』(1951)といったオペラを書いている。プロコフィエフ(1891~1953)は亡命時代に新古典主義と斬新なモダニズムのスタイルによる『三つのオレンジへの恋』(1919)を書いたが、ソ連帰国後は社会主義リアリズム的傾向をもった『セミョーン・コトコ』(1939)や、大規模な大作『戦争と平和』(1943、第五版1952)を残している。

新ヴィーン楽派のオペラ[編集]

いわゆる「新ヴィーン楽派」の作曲家のオペラには、完成された作品としてはベルク(1885~1935)の『ヴォツェック』(1925)、シェーンベルク(1874~1951)には『期待』(1909)、『幸福な手』(1913)、時事オペラの影響をうけた、最初の十二音技法によるオペラ『今日から明日へ』(1929)があるが、更に未完の作品である前者の『ルル』や後者の『モーゼとアロン』等の無調、十二音技法のオペラが戦後のドイツオペラの発展や、それのみならずイタリアのダッラピッコラノーノらのオペラに与えた影響は計り知れない。

戦後オペラ史[編集]

第二次世界大戦後、前衛の世代は何が斬新かということを問い詰めるために、極度に禁欲的な姿勢で創造に臨むことになる。規模も大きく、経済的事情と手間暇のかかるオペラという存在は、早くも前衛作曲家の目の敵とみなされた。また、声楽家が積極的に現代音楽にかかわるというキャシー・バーベリアンのようなケースはまれであった。

前衛の時代に書かれた最も重要なオペラは、前衛イディオムを批判的に使うことが可能だったベルント・アロイス・ツィンマーマン(1918~1970)の『兵士達』(1965)であろう。また、オペラ創作にハンス・ヴェルナー・ヘンツェ(1926~)が先頭を切り、『鹿の王』(1955・改訂版1963)、『若き貴族』(1964)、『バッカスの巫女たち』(1965)など、多くのオペラを書いた。しかし、彼のオペラ創作は前衛イディオムをフル活用したものではなく、あくまで同時代の音楽語法を自由に用いた19世紀的作劇法による伝統的スタイルのオペラ、といったものであったため、現代音楽マニアよりも伝統的なオペラの愛好家に受け入れられた。

そして前衛の時代が終わり、前衛の世代に経済的基盤が出来たことを背景にオペラという概念を「音楽劇」という側面から、作曲家一人一人が個別に考える時代に入った。

  • ルイージ・ノーノ(1924~1990)のようにいくつかの試行を経て「耳で聞く悲劇」という様式へ収斂させた『プロメテオ』(1982)。
  • 数々の演奏家が別々に個別の音楽を奏でる「ミュジ・サーカス」というアイデアが存分に生かされたジョン・ケージ(1912~1992)の『ユーロペア1~5』。
  • 「オペラはストラヴィンスキーで終わった。これからは音楽が劇を操作する“音楽劇”でなくてはならない」という欲望を実らせたルチアーノ・ベリオ(1925~2003)の『オウティス』。
  • 人造言語に基づき、原言語の意味を過激なパフォーマンスで問うハンス・ヨアヒム・ヘスポスの『イオパル』。彼の器楽作品は音を出さない行為も音楽として扱うが、この考え方はジョン・ケージの『4分33秒』に近くなる。これをマウリシオ・カーゲル(1931~)の諸器楽作品と同じく「ムジーク・テアター」として扱う音楽学者もいる(出典:dtv-Atlas zur Musik、Deutscher Taschenbuch Verlag、日本語訳は白水社から出ている)。

モートン・フェルドマン(1926~1987)が1977年、サミュエル・ベケットの台本にもかかわらず完全なアンチ・オペラに仕立てた“Neither”に始まり、1980年代後半から1990年代にかけて初演されたアドリアーナ・ヘルツキーの『ブレーメンの自由』やヘルムート・ラッヘンマン(1935~)の『マッチ売りの少女』(1997)は、電子音を含むすべての現代作曲技法の使用や筋書きなしの台本の使用、従来のイディオムの徹底的な不使用など、21世紀のオペラのあり方を先取りするようになった。

しかしながら、以前同様に台本ありのオペラを書く作曲家の層も厚く、両者の拮抗が21世紀に入っても続くと見られている。近年でも暗譜不可能な場合はボーカル・スコアを読みながら舞台に立つ歌手も多く、この点に関しても賛否両論に割れている。近年のシュトックハウゼンは厳格に「暗譜強制」を指示しているが、これは視覚的にも大きな効果を上げる一方、演奏の為に大量の練習時間を必要とし、肉体的疲労も大きい。

オペラ創造をライフワークにするといったシュトックハウゼン松平頼暁(1931~)のような存在も、世界中にちらほら見られる。この場合、作品全体を上演するのではなく常に部分上演といった形で演奏されるために、未完の作品を毎回提示するといったことは、本来は異常な事態である。

日本での歴史[編集]

日本のオペラの歴史を記すにあたっては、もともと日本に起源を持たないオペラがどのようにして受容されるようになったか、から始める必要がある。

明治時代に入り、1894年11月24日に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)奏楽堂で、オーストリア大使館職員により『ファウスト』第1幕が上演され、これが現在日本で行われているオペラの原点となった。

さらに1903年、東京音楽学校・東京帝国大学の教師らの指導の下にグルックの『オルフェウス(オルフェオとエウリディーチェ)』が上演された。

そして1911年に創設された帝国劇場に歌劇部(のちに洋劇部)が併設され、ここでオペラの小規模な上演が行われるようになった。注目すべきことにこの時代すでに日本人による創作オペラの作曲と上演が行われていた。

この時代の日本人によるオペラには、東儀鉄笛(1869~1925)の『常闇』(1906)(台本:坪内逍遥)や、小松耕輔(1884~1966)の『羽衣』(1906)(台本:小林愛雄)等がある。『常闇』の台本を書いた坪内逍遥は、1904年に『新楽劇論』を著し、その中でヴァーグナーに対抗して、日本の古典演劇や舞踊を取り入れた日本独自の「国民楽劇」の樹立を主張していた。

帝劇オペラは、「帝国劇場」という名前ではありながら国営ではなく株式会社であったため、やがて財政難から上演の継続が困難となり、1916年に帝劇洋劇部は解散となる。この時期に来日して洋劇部の指揮者を務めていたジョセフ・ローシーは自腹を切ってオペレッタ劇場「ローヤル館」を開設・運営するも1年と持たず、ローシーは日本を去る。

その後、大正期から当時随一の歓楽街であった東京浅草浅草オペラとして知られる公演が行われるようになり、様々なオペラ劇団による公演が行われてオペラの大衆化に貢献した。この浅草オペラも1923年関東大震災による劇場の焼失とともに衰退し、1925年には消滅した。

余談ではあるが、著名な喜劇人の榎本健一(エノケン)は浅草オペラにおいて活躍しており、彼のその後の音楽性にあふれた軽妙かつ活動的な芸風は浅草オペラの経験によるものと評されている。

1932年にヨーロッパで活躍していたテノール歌手の藤原義江が帰国すると、藤原歌劇団の前身となる「東京オペラ・カムパニー」を設立し、『ラ・ボエーム』『リゴレット』『トスカ』などの本格的公演を行う。1939年には「藤原歌劇団」となり、1942年には『ローエングリン』を上演している。藤原歌劇団はその後現在に至るまで盛んな活動を続けている。

また、1940年には、山田耕筰(1886~1965)の代表作『黒船』が初演されている。

第二次世界大戦後の1952年には、東京音楽学校の出身者達によって二期会が設立され、以後、藤原歌劇団と共に戦後の日本オペラの中心的存在として、欧米の歌劇場に肩を並べるような本格的なオペラ上演の活動を展開していくことになる。また、二期会の設立と同じ1952年に、團伊玖磨(1924~2001)の『夕鶴』が初演され、以後日本の人気オペラとなり上演が重ねられた。

その後、東京室内歌劇場東京オペラ・プロデュースといったその他のオペラ団体も生まれたが、上記の二期会、藤原歌劇団を含め専用の劇場を持っている団体はない。1997年には日本で最初のオペラ専用の歌劇場である新国立劇場オペラ劇場が誕生したが、専属のオーケストラや歌手、音楽監督は存在せず、専属の合唱団があるのみである。地方を含めた多くの都市には、地元のアマチュアの合唱団とプロのソリストやオーケストラが共演する「市民オペラ」と呼ばれるものが存在し、特に地方では地元の民話などを題材にした新作オペラが上演されることもある。だが、各主要都市が歌劇場をもち、それぞれに専属のプロの歌手、オーケストラ、合唱団、音楽監督が存在するヨーロッパの状況とはまだまだ大きな隔たりがあると言わざるを得ない。もっとも、日本にはヨーロッパほど自国団体のオペラ上演に対する大きな需要があるわけではない、と言う面も無視できない。


著名な歌劇場[編集]

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ミラノ スカラ座(夜間)

著名なオペラ演出家[編集]


関連項目[編集]

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参考文献[編集]

  • 長木誠司編著 『作曲の20世紀ⅰ.ⅱ』 音楽之友社〈クラシック音楽の20世紀1・2〉、1992年。
  • 長木誠司 『前衛音楽の漂流者たち―もう一つの音楽的近代』 筑摩出版、1993年。
  • ウルリヒ・ミヒェルス編 『図解音楽事典』 角倉一朗日本語版監修、白水社、1989年。
  • 門馬直美 『西洋音楽史概説』 春秋社、1976年。テンプレート:Link FA sv

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