「ダグラス・マッカーサー」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
(マッカーサーを取り上げた作品: 画像追加)
(SEOに熱心なMuttley (トーク) による編集を 由亜辺出夫 による直前の版へ差し戻しました)
 
(他の1人の利用者による、間の1版が非表示)
(相違点なし)

2020年1月17日 (金) 21:50時点における最新版

マッカーサー元帥

ダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur, 1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、アメリカ軍将軍元帥)で、GHQ最高司令官であり、名誉勲章の受章者である。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

マッカーサー元帥

1880年、軍人である父の任地であったアーカンソー州リトルロックの兵営内の宿舎で生まれ、基地内で育った。父のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将南北戦争の退役軍人であり、名誉勲章を受章している。フィリピンでは初代軍政総督も勤めた人物であり、ダグラスは親子2代でフィリピンに縁があった。

母のメアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーはヴァージニア州ノーフォーク生まれである。兄のアーサーはアメリカ海軍兵学校に入学し、海軍大尉として1923年に死亡。弟マルコムは1883年に死亡。甥のダグラス・マッカーサー2世在日本アメリカ合衆国大使となる。

フランクリン・ルーズベルトウィンストン・チャーチルらとは遠戚関係にある。これは祖父のアーサー・マッカーサー卿が元々はイギリス貴族からの移民であり、祖父はサーの称号を持っており、マッカーサー家はイギリス貴族の血筋であるためである。

幼少期は母によってフランスの風習に倣い女子の格好をさせられていた。このことの人格形成への悪影響を危惧した父によって陸軍士官学校に入学させられることとなる。

陸軍入隊[編集]

1899年にウェストポイントアメリカ陸軍士官学校にトップ入学し、1903年陸軍少尉卒業した。この時期、マッカーサーの母は学校の近くのホテルに移り住んでいた。その成績はアメリカ陸軍士官学校史上抜群で、ダグラス以上の成績で卒業した者はこれまで2名しかいない(ロバート・リーがそのうちの一人である)。

卒業後、アメリカ陸軍の工兵隊少尉としてフィリピンに配属された。彼の長いフィリピン生活の始まりであった。1905年に父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となったため、ダグラスも副官として日本東京で勤務した。

第一次世界大戦[編集]

その後に陸軍省に戻り、第一次世界大戦においては、各州の州兵を徴募して「レインボー師団」を結成、西部戦線で第42歩兵師団を指揮した。戦場において2回負傷し、15個の勲章を受章した。

戦後、最年少で少将となる栄進を果たし、士官学校の校長に就いた。1928年アムステルダムオリンピックではアメリカ選手団長となったが、アムステルダムで新聞記者に囲まれた彼は「我々は勝つためにやって来た」と答えた。

陸軍参謀総長[編集]

1930年、アメリカ陸軍最年少で参謀総長に就任した。このポストは大将職であるため、少将から中将を経ずに、一時的に大将に昇進した。副官には、後の大統領ドワイト・アイゼンハワーが付いた。1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座った事件(ボーナスアーミー)で、陸軍による武力排除が行われた。これは、「退役軍人たちは、共産党の支援を受けてデモを起こしたのではないか」と疑念を抱いた政府がマッカーサーの計画を許可して行われたことである。マッカーサー自身も共産主義を徹底的に嫌っていた。

フランクリン・ルーズベルト大統領は不況対策と称して軍事予算削減の方針であったが、マッカーサーは「共産主義者の陰謀である」と考え、大統領をあからさまに批判した事で大統領の怒りを買った。

フィリピン生活[編集]

1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。アメリカはフィリピンを1946年に独立させることを決定した為、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはマヌエル・ケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。

マッカーサーがアメリカ陸軍でする仕事はほとんど無くなり、ケソンの求めに応えてフィリピンへ赴いた。そこで、未来のフィリピン大統領から「フィリピン軍元帥」の称号を与えられたが、この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。なおこの頃マッカーサーの副官を務めたのが、その後大統領となるドワイト・D・アイゼンハワーであった。

マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、現地の最高級ホテルで、ケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、高等弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。また、アメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。また1936年1月17日にマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。

1937年4月にケソンに伴われて、日本を経て一度帰国した。ここで2度目の結婚をして再度フィリピンを訪れ、それ以後は本土へ戻らなかった。1937年12月にアメリカ陸軍を退役。後年、アメリカ陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けた事はよく知られている。

太平洋戦争[編集]

現役復帰[編集]

フィリピン国内の基地で演説を行うマッカーサー

1941年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、中将として現役に復帰(26日付で少将として召集、翌27日付で中将に昇進)してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となり、太平洋戦争突入後の12月18日付で大将に昇進した。

ルーズベルトはマッカーサーを嫌っていたが、当時アメリカにはマッカーサーより東南アジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。ルーズベルトはマッカーサーを中将で復帰させたが、マッカーサーは大変不満であった。一度は名目上とはいえ「元帥」に就いていたし、自分は中将なのに、同じくフィリピンを本拠地とするアジア艦隊の司令長官で、知り合いでもあったトーマス・ハートが大将なのも気に入らなかった[1]

中将になってからも「Small fleet, Big Admiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、相変わらずハートやアジア艦隊を揶揄していた[2]

フィリピン撤退[編集]

12月8日に、日本軍がイギリス領マレーハワイ州真珠湾などに対して攻撃を行い大東亜戦争太平洋戦争)が始まると、ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と信じた。

オーストラリアに退却したマッカーサー

怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島コレヒドール島籠城する作戦に持ち込んだ。2ヶ月に渡って日本陸軍を相手に「善戦」していると、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。しかし、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。

一方、ルーズベルト大統領は個人的にはマッカーサーを嫌っていたが、マッカーサーが戦死あるいは捕虜になった場合、国民の士気に悪い影響が生じかねないと考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへ脱出するよう命じた。マッカーサーはケソンの脱出には反対だったが、ケソンはマッカーサーの長い功績をたたえて、マッカーサーの口座に50万ドルを振り込んだ。実際には脱出させてもらう為のあからさまな賄賂であったが、マッカーサーは仕方なく賛成した。

コレヒドール島からの脱出を余儀なくされた際「アイ・シャル・リターン (I shall return ; 私は戻って来る) 」と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇ミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からボーイングB-17オーストラリアに飛び立った。

この敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。オーストラリアでマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。だが、その後もマッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。

フィリピン反攻[編集]

レイテ島に再上陸を果たすマッカーサー

南西太平洋方面総司令官時代には、ビスマルク海海戦(所謂ダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。

1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったし、アメリカ海軍もトップのアーネスト・キングをはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの意をしぶしぶ呑んだと言われている。

マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島レイテ湾に上陸し、フィリピンゲリラにも助けられたが、結局は終戦まで日本軍の一部はルソン島の山岳地帯で抵抗を続けた。この間、1944年12月に元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。

GHQ最高司令官[編集]

バターン号」で厚木海軍飛行場に到着したマッカーサー
昭和天皇との会見(1945年9月27日フェレイス撮影3枚中の1枚)

1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎大本営)がイギリスやアメリカ、中華民国オーストラリアなどの連合国代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちに日本はアメリカやイギリス、中華民国やフランスを中心とする連合軍の占領下に入った。

マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県厚木海軍飛行場に到着した。その後横浜の「ホテルニューグランド」に滞在し、降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後東京に入り、以後連合国軍が接収した第一生命ビル内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

1945年9月27日には、昭和天皇を当時宿舎としていた駐日アメリカ大使館公邸に招いて会談を行った。この会談においてマッカーサーは昭和天皇を出迎えはしなかったが、昭和天皇の話に感銘を受けたマッカーサーは玄関まで昭和天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。その際に略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日の29日の新聞記事に掲載されたため、当時の国民にショックを与えた。なおマッカーサーは略装を好み、重要な場でも略装で臨むことが多かったために、その後大統領となったハリー・S・トルーマンから批判されたこともある。

これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、GHQの反発を招く事になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。これを切っ掛けとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置いた。また、連合国軍と中立国の記者のために日本外国特派員協会の創設を指示した。

占領下の日本ではGHQ / SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。また、東條英機横浜野戦病院(現・横浜市立大鳥小学校)に入院している際に彼の見舞いに訪れ、東條は重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという[3]

マッカーサーは、日本統治を、「政治家、経済学者、産業人、神学者」として行いたいという信条があった。なお占領当時のマッカーサーはフリーメイソンのフィリピン・グランドロッジに所属しており、32位階の地位にあったとされる。

大統領選[編集]

しかし占領期間中、マッカーサー自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいた。しかし現役軍人は大統領になれないため、早く占領行政を終わらせ凱旋帰国を望んでいた。そのため、1947年からマッカーサーはたびたび、「日本の占領統治は非常にうまく行っている」、「日本が軍事国家になる心配はない」、などと声明を出し、アメリカ本国へ向かって占領を終わらせるようメッセージを送り続けた。

1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。この声明にもっとも過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞は、マッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙で彼は共和党候補として登録された。

マッカーサーを支持している人物には、軍や政府内の右派を中心に、シカゴ・トリビューン紙のロバート・マコーミック社主や、やはり新聞のランドルフ・ハースト社主がいた。ニューヨーク・タイムズ紙も彼が有力候補であることを示し、ウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。

しかし、大統領に選ばれたのは現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。マッカーサーとトルーマンは、戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカ国民の視線を気にせずに日本統治を行えることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。

朝鮮戦争[編集]

北朝鮮による奇襲攻撃[編集]

金浦で閲兵を行うマッカーサー

第二次世界大戦後に南北に分割独立した朝鮮半島において、1950年6月25日に、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金日成率いる朝鮮人民軍韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

当時マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)やマッカーサー麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたのにも関わらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかったので、北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、「考えたいから一人にさせてくれ」と言って、平和が5年で破られたことに衝撃を受けていた。 

しかしその後は、「韓国軍は奇襲を受けて一時的にショックを受けているだけであり、それが収まれば必ず持ち直すに違いない」と考え、あまり戦況を心配する様子を表に出さなかった(GHQ外交局長シーボルトの回想による)。6月27日になると、マッカーサーは朝鮮半島におけるアメリカ軍の全指揮権を国防省から付与され、直ちに軍需物資の緊急輸送とアメリカの民間人救出のための船舶・飛行機の手配を行った。

28日になるとソウルが北朝鮮軍に占領された。僅かの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、事の深刻さを再認識したマッカーサーは本格的軍事行動に乗り出すべくソウル南方の水原飛行場に飛び、李承晩大統領ら要人との会談を行った。

なお、1948年8月15日に行われた大韓民国の成立式典で、マッカーサーは李承晩に「貴国とは1882年以来、友人である」と演説し、有事の際の援軍を約束していた。その言葉通り、マッカーサーはすぐに国連軍総司令官として戦争を指揮し、その後前線視察を行い兵士を鼓舞しすぐさま東京へ戻った。なおマッカーサーはその後も暮らし慣れた東京を拠点として戦線に向かい、一時滞在しまた東京へ戻るという指揮形態を繰り返したため、後に判断を誤り中華人民共和国の参戦を招くこととなる。

仁川上陸作戦[編集]

仁川上陸作戦の指揮を執るマッカーサー

7月に入ると北朝鮮軍の電撃的侵攻に対して、韓国軍と在韓アメリカ軍を中心とした国連軍は絶望的状況に陥った。マッカーサーは急遽在日アメリカ軍第八軍を援軍として派遣するが、装備が十分に整っていなかったため進撃を阻むことは出来ず、釜山周辺の地域を確保するので手一杯であった。

そこでマッカーサーはこの状況を打開すべく、ソウル近郊の仁川への上陸作戦を提唱した。この作戦は本人が「成功率0.02%」と言う程の至難な作戦であり、軍部の殆どが反対を表明、国防省からシャーマン海軍作戦部長を東京に送ってまで中止にさせようとしたが、マッカーサーは作戦を強行した。

この作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転し、国連軍はソウルを奪回することにまで成功した。これはマッカーサーの名声と人気を大きく高め、9月には早くもソウルを奪還した。

中国人民志願軍の参戦[編集]

その後マッカーサーは勝利を重ねて朝鮮半島を北上するものの、トルーマンからは「中華人民共和国を刺激するので、過度な北上は行わないように」との命令を受けていた。しかしマッカーサーは「中華人民共和国による参戦はない」と信じていたこともあり、補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境まで迫った。

その結果、中華人民共和国に過度に警戒心を抱かせることとなり、中華人民共和国の国軍である中国人民解放軍で結成された「中国人民志願軍」の参戦を招くに至った。その後「中国人民志願軍」は人海戦術で国連軍を南に押し戻し、戦況は一進一退に陥った。

更迭[編集]

1951年になると、北朝鮮軍と「中国人民志願軍」の反抗が本格化し、再び戦線を押し戻すようになった。このような状況を打開することを目的に、マッカーサーは中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、さらには同国への核攻撃の必要性を主張した。しかしトルーマン大統領は、「核兵器を使用することでソ連を強く刺激し、その結果ソ連の参戦を招きかねない」としてこの意見を退けた。

マッカーサーが核攻撃を主張するのみならず、自らの命令を無視して北上を続けたために、中華人民共和国の参戦を招いたことに激怒していたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーに対する更迭を発令した。

マッカーサーはそのとき愛妻のジーンと共に、来日したウォーレン・マグナソン上院議員とノースウエスト航空のスターンズ社長と会食をしていた。副官のシドニー・ハフ大佐は、立ち上がったジーン夫人に解任のニュースを知らせ、「至急報」と書かれた茶封筒を渡し、夫人はまた、その茶封筒をマッカーサーに黙って渡した。内容を読み終えたマッカーサーはしばらく沈黙していたが、やがて夫人に向かってこう言ったと伝えられている。「ジーン、これで帰れるよ」。

マッカーサーの更迭については、日本の非武装化推進などが当時のアメリカ軍部からも異論が有ったためとも言われている。オマル・ブラッドリー統合参謀本部議長は「マッカーサー解任は当然である」と主張した。

4月16日にマッカーサーはマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いで東京国際空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛け、毎日新聞朝日新聞はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。また、吉田茂日本政府は彼に『名誉国民』の称号を与えることを決定したが、マッカーサーは受けるとも受けないとも言わなかった。マッカーサーを乗せた専用機「バターン号」は午前7時23分に東京国際空港から離日した。

引退[編集]

退任演説を行うマッカーサー

1951年4月19日ワシントンD.C.の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任に際しての演説を行った。マッカーサーは最後に、ウェストポイント陸軍士官学校にマッカーサー自身が在籍していた当時(19世紀末)、兵士の間で流行していた風刺歌のフレーズを引用して、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ(Old soldiers never die; they just fade away.)」と言い、有名になった。この歌には何通りかの歌詞があるが、要約すると「遠くにある古ぼけた食堂で、俺たちは一日三度、豚と豆だけ食う。ビーフステーキなんて絶対出ない、畜生、砂糖ときたら紅茶に入れる分しかない。だから、おれたちゃ少しずつ消えていくんだ。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。二等兵様は毎日ビールが飲める、伍長様は自分の記章が大好きだ。軍曹様は訓練が大好きだ、きっと奴らはいつまでもそうなんだろう。だから俺たちはいつも訓練、訓練。消え去ってしまうまで」という痛烈なものである。

議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。翌日にはニューヨークをパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まって彼を祝福した。

マッカーサーは1952年に再び大統領選出馬を画策するが、すでに高齢で支持を得られず断念し、同年レミントンランド社(タイプライター及びコンピュータメーカー)の会長に迎えられた。1964年4月5日老衰による肝臓腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院にて84歳で死去。偉人として国葬が執り行われ、日本代表として吉田茂が出席した。

マッカーサーのアメリカ議会証言録[編集]

引退後の1951年5月3日上院軍事外交共同委員会で朝鮮戦争における中華人民共和国へ対しての海上封鎖戦略についての証言の中で、

They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.と答弁した。

この発言に関して小堀桂一郎は「これらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼ら(日本政府・軍部)は恐れてゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたのです」と訳している。

エピソード[編集]

「目玉焼き事件」[編集]

厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは、直接東京には入らず、横浜の「ホテルニューグランド」315号室に12泊した。滞在中のある日、マッカーサーは朝食に「2つ目玉の目玉焼き」と「スクランブルエッグ」をリクエストしたが、朝食で注文の品が並ぶことはなく、お昼を過ぎてようやく「1つ目玉の目玉焼き」だけが運ばれてきた。マッカーサーは、料理人を呼び出して問いただしたところ、料理人は「将軍から命令を受けてから今まで八方手を尽くして、ようやく鶏卵が一つ手に入りました」と答えた。その瞬間、マッカーサーは、日本が現在置かれている状況と、自分の為すべき仕事を理解したという。ただし、このエピソードを事実として証明する関係者の証言はない。

当時のホテルニューグランド会長の回想によれば、マッカーサーがニューグランドに着いて最初に出された食事は冷凍のスケソウダラサバをかけたキュウリ、そして鯨肉のステーキであり、マッカーサーはステーキを一口だけ食べると無言になり、後は手をつけなかった。その三日後、横浜港に停泊していた軍艦から山のように食料が荷揚げされたという。

昭和天皇との会見[編集]

昭和天皇が戦後処理のためマッカーサーを訪問した際に、会談の中で昭和天皇の真摯な対応に感銘を受ける。当時、連合国のソ連とイギリスを中心としたイギリス連邦諸国は天皇を戦犯リストの筆頭に挙げており、マッカーサーはもし天皇を処刑した場合、日本に軍政を布かなくてはならなくなり、ゲリラ戦が始まる可能性を予見していたため、それに反対し、天皇を丁重に扱うつもりだった。

とはいえ天皇が、敗戦国の君主がそうするように戦争犯罪者として起訴されないよう訴えるのではないかと不安に思っていたが、昭和天皇は命乞いをするどころか「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚悟しており、私の命はすべて司令部に委ねる。どうか国民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べた[4]。マッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服した。マッカーサーは玄関まで出ないつもりだったが、会談が終わったときには昭和天皇を車まで見送り、慌てて戻ったといわれる[5]。後にも「あんな誠実な人間は見たことがない」と発言している。

会見写真での夏の略式軍装にノーネクタイというラフな姿勢は、「礼を欠いた」、「傲然たる態度」であると多くの日本国民に衝撃を与えた[6]。だが、松本健一リチャード・ニクソンの回想[7]を引用し、マッカーサーの服装とスタイルには一種のダンディズムともいえる独特な性向があり、天皇の前でのスタイルはいつものものでもはるかにマシなものであったと指摘している。ニクソンが回想する「サングラス、色褪せた夏軍服、カジュアルな帽子、そしてコーンパイプ」という第二次大戦中のマッカーサーのスタイルはまさに厚木飛行場に降り立った時の彼の姿である。[8]

「12歳」発言[編集]

民主主義の成熟度について「アメリカがもう40代なのに対して日本は12歳の少年、日本ならば理想を実現する余地はまだある」と述べた。これは成熟した民主主義をもちながらファシズムに走ったドイツのケースと日本のケースを比較し、新生日本を擁護した文脈であった。しかしながら、“12歳”という部分だけが取り出され、現在に至るまで“日本の未熟さ”について「日本人の精神年齢が12歳程度」と侮辱したかのような解釈を受け続けている。

そもそも、上記「12歳」発言は、1951年5月5日に米上院軍事外交委員会において上院議員R・ロングが行った「日本とドイツの占領の違い」に関する回答として行われたものである。マッカーサーは次のように回答した。

  1. 科学、美術、宗教、文化などの発展の上からみて、アングロ・サクソン民族が45歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人もそれとほぼ同年齢である。
  2. しかし、日本人はまだ生徒の時代で、まだ12歳の少年である。
  3. ドイツ人が現代の道徳や国際道義を守るのを怠けたのは、それを意識してやったのであり、国際情勢に関する無知のためではない。ドイツが犯した失敗は、日本人の失敗とは趣を異にするのである。
  4. ドイツ人は、今後も自分がこれと信ずることに向かっていくであろう。日本人はドイツ人とは違う。

前後の文脈を総合すると、ドイツ人は十分に成熟していながら確信犯的に戦争を起こしたが、日本人は未熟であったため戦争という過ちを犯したという趣旨の発言であり、新生日本を擁護する意味合いを含むものであった。しかしながら5月16日にこの発言が日本で報道されると、日本人は未熟であるという否定的意味合いのみが巷間に広まり、このため日本におけるマッカーサー熱は一気に冷却化した。政府が計画していた「終身国賓待遇の贈呈」「マッカーサー記念館の建設」はいずれも先送りになり、三共日本光学味の素の三社が「12歳ではありません」と銘打ち、タカジアスターゼニッコール、味の素の三製品が国際的に高い評価を受けている旨を宣伝する共同広告を新聞に出す騒ぎになった。

上記に関連して、戦争放棄を謳った日本国憲法についても、アメリカでは実現不可能な理想を、日本において実現しようという目論見があったと言われる。

ICU創設[編集]

国際基督教大学(ICU)の創設にあたり、財団の名誉理事長として尽力した。戦後の民主化政策とあいまって、アメリカ型の高等教育機関であり、キリスト教の強い影響を受けたリベラルアーツ・カレッジを設置することにより、共産主義勢力への戦略的牽制を図ろうとしたと考えられる。

その他[編集]

日本滞在中はプライベートで幾度か京都奈良日光など観光地を訪問したが、そのことが公になることはなかった。しかし、唯一の例外としてミズーリ艦上での降伏文書調印式を終えた後に鎌倉鶴岡八幡宮を幕僚とともに参拝したことが、1945年9月18日の「読売報知」で報じられている。マッカーサーにとっては40年ぶりの参拝だったという。

マッカーサーを取り上げた作品[編集]

マッカーサー

脚注[編集]

  1. アジア艦隊のトップが大将なのは、上海などで砲艦外交をする上で仕事をやりやすくするためという理由があった。
  2. マッカーサーがウエストポイント校長時代、アナポリスの校長はハートであった。
  3. 『巣鴨日記』(「文藝春秋」昭和27年8月号掲載)より
  4. 美和信夫『天皇研究』広池出版、『マッカーサー回想録』、朝日新聞昭和39年1月25日
  5. 吉田茂『回想十年』
  6. 竹田恒徳「この道」(『雲の上、下 思い出話』東京新聞社)。
  7. ニクソン『指導者とは』(文藝春秋、徳岡孝夫訳)。同書によると、マッカーサーの略式軍装は奇行が習慣化したもので、1950年に朝鮮戦争問題でマッカーサーと会見したトルーマン大統領は彼のサングラス、シャツのボタンを外す、金モールぎらぎらの帽子という「十九かそこらの中尉と同じ格好」に激怒したという。
  8. 松本健一『昭和天皇伝説 たった一人のたたかい』河出書房新社、p.p.123-130。

参考文献[編集]

  • ダグラス・マッカーサー「陸海軍省併合及空軍独立論に対する米軍参謀総長の意見」(『隣邦軍事研究の参考 第四号』)偕行社編纂部発行、1933年
  • ダグラス・マッカーサー『マッカーサー回想録』津島一夫訳、朝日新聞社、昭和39年 のち中公文庫(上下) 2003(平成15)年
  • 袖井林二郎編訳『吉田茂=マッカーサー往復書簡集』 法政大学出版局, 2000年
  • ジョン・ガンサー『マッカーサーの謎 日本・朝鮮・極東』 時事通信社, 1951
  • コートニー・ホイットニー『日本におけるマッカーサー 彼はわれわれに何を残したか』(抄訳)毎日新聞社外信部訳・毎日新聞社 1957
  • 河原匡喜『マッカーサーが来た日』新人物往来社, 1995年 光人社NF文庫、2005年、ISBN 4-7698-2470-X
  • 増田弘 『マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ』中公新書、2009年
  • 戦後60年記念号 別冊歴史読本18号『日本の決断とマッカーサー』 新人物往来社, 2005年
  • リチャード・B.フィン『マッカーサーと吉田茂』上下 同文書院インターナショナル. 1993年、 角川文庫(巻末の書誌は省略), 1995年
  • ウィリアム・マンチェスター『ダグラス・マッカーサー』上下 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985年
  • マイケル・シャラー 『マッカーサーの時代』 豊島哲訳 恒文社, 1996
  • 工藤美代子『マッカーサー伝説』 恒文社21, 2001
  • 豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫, 2008
  • 袖井林二郎『マッカーサーの二千日』 中公文庫新版, 2004
  • 袖井林二郎『拝啓マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』 岩波現代文庫,2002
  • 袖井林二郎・福島鋳郎『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』 日本放送出版協会, 1982
  • 袖井林二郎・福島鑄郎『図説 マッカーサー』河出書房新社、2003年、ISBN 4-309-76038-4
  • 榊原夏『マッカーサー元帥と昭和天皇』 集英社新書, 2000 主に写真
  • ロジャー・O.エグバーグ 『裸のマッカーサー 側近軍医50年後の証言』林茂雄,北村哲男共訳 、図書出版社, 1995
  • クレイ・ブレア Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳 パシフィカ, 1978.
  • ラッセル・ブラインズ『マッカーサーズ・ジャパン 米人記者が見た日本戦後史のあけぼの』長谷川幸雄訳 朝日ソノラマ, 1977.8
  • 三好徹『興亡と夢』第5巻(集英社) - ISBN 0-87725-898-8
  • 谷光太郎「ハート アジア艦隊司令官」『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年、ISBN 978-4-05-400982-0
  • 児島襄『日本占領』(文藝春秋のち文春文庫)、『講和条約』(新潮社のち中公文庫)大著

関連項目[編集]

人物
出来事

外部リンク[編集]


先代:
チャールズ・P・サマール
アメリカ陸軍参謀総長
1930 - 1935
次代:
マーリン・クレイグ
先代:
-
連合軍最高司令官(SCAP)
1945 - 1950
次代:
マシュー・リッジウェイ