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加藤の乱(かとうのらん)は、2000年11月第2次森内閣打倒を目指して与党自由民主党加藤紘一山崎拓らが起こした一連の倒閣運動。いわゆる森おろしである。別名は加藤政局YK革命

2000年11月20日衆議院本会議に向けて野党森内閣不信任決議案を提出する動きを見せると、加藤紘一(加藤派会長)とその同志の国会議員が賛成もしくは欠席すると宣言した。これに加藤の盟友である山崎拓(山崎派会長)が山崎派として同調する構えを見せた。

当時、衆議院の議席は与党が480人中272人を占め、過半数より31人上回っていたが、衆議院の加藤派45人と山崎派19人の計64人が造反をすれば内閣不信任案が可決され、森内閣は内閣総辞職衆議院解散を余儀なくされる。この発言は、加藤派の自民党からの独立、政界再編などさまざまな憶測を呼んだ。

党幹事長野中広務による党内引き締めにより、加藤の意図は失敗したが、自民党内の混乱は森政権の低落に一層拍車をかけることになり、翌年春の自民党総裁選での小泉純一郎当選への布石となった。

遠因[編集]

派閥を継承し総裁候補としての実績を着々とあげつつあった加藤と山崎。総裁候補の登竜門として1999年9月自民党総裁選挙に出馬するも事前予想通り現職総裁の小渕恵三に敗れた。が、あくまでも登竜門のつもりだった加藤・山崎であったのに対し、無投票での再任を願っていた小渕は2人の総裁選出馬自体に激怒した。また、加藤が小渕に政策論争を挑んだことも小渕の逆鱗に触れた。温厚な人柄で通っていた小渕だが「あいつは俺を追い落とそうとした」と加藤・山崎派を徹底的に干していく。非主流が干されることは政争の常であるが小渕の対応はその範疇を越えていた。小選挙区制導入により、徐々に執行部の権力が強くなっており、非主流派の立場は一層厳しいものとなった。

当時の加藤は改革派のイメージが強く(小渕と財政に関して決定的に政策主張が違っていた。財政健全派や市場主義派に支持されていた)、首相になってほしい政治家ランキングなどにも上位に名前を出していた。また党内第二派閥で保守本流の宏池会会長や「YKKの長男」として総裁候補一番手と認識されていた。しかし、非主流派で干され続け、活路が見出せない中、小渕が倒れ、いわゆる五人組によって不透明な形で森総理が誕生する。

森との順番的に遅れをとり(小渕再選前には、加藤は政界ではポスト小渕のNO1候補と衆目一致するところであった。保守本流の派閥の長、橋本・小渕政権誕生への協力、幹事長としての新進党切り崩しの実績等があったためである。しかし、当時の加藤は、小渕派(旧竹下派・田中派)に担がれる形での首相就任を拒んでいた。YKKとしての反竹下派の源流、宮沢内閣の竹下派(金丸)影響下の政権二重構造への反発などから。しかし、自身の首相形態に理想を求めすぎた為、就任が云わば先送りされ)、加藤の焦りが極まる一方、森内閣は、神の国発言中川秀直官房長官スキャンダルによる辞任などで、内閣支持率は低迷を続け、不人気がピークに達していた。

国民の支持が低い森内閣のままで2001年参院選に突入すると自民党が惨敗することが予想され、自民党が敗北した1998年参院選での非改選議員と合わせて与党が参議院過半数割れも懸念されていた。一時は執行部も加藤・山崎を主流派に取り込もうとし、森首相は前回の改造人事での加藤派・山崎派の要望だった小里貞利の総務会長起用や保岡興治の閣僚入りを実現させたが、森との経済・財政政策が決定的に違う加藤にとってはそれは自らの人気を下げる行為にしかならず、森とは距離を置いていた。

山崎は政界入り後から加藤の盟友であり、政権構想もあくまでも加藤との連携が大前提であり、先に加藤、次に山崎という考えであり、とことん加藤について行くつもりであった。また、当時の状況ではますますその道しか打開策がなかった。

加藤の戦略[編集]

加藤はマスコミやウェブサイト、2ちゃんねる(運営側に了承を得て公式利用)などを通じて世論に訴える戦術をとり、広く公衆の関心を集めた。不信任案提出当日の夜は特集番組を放送したニュース番組等は軒並み高視聴率を記録し、タクシー・居酒屋・銭湯などは利用者が通常日に比べ激減するほど、世間の関心を集めた。

加藤は、加藤派の一部の離脱は予想の範囲内であったが、不信任案を通す人数までは切り崩されることはほとんど無いと確信していた。

マスコミ・世間は不信任案否決に至っても加藤が自民党を離脱し民主党に与すると当然思ったが、加藤は自民党に残ってあくまでも自民党の中で改革を狙うと主張した。2000年当時、自民党を離脱した様々な勢力はどれも一過性なもので、時機が過ぎれば自民党在籍時より政界影響力が小さくなっていたことも加藤の念頭にはあった[1]

加藤の発言[編集]

意思表明時
「森首相に改造はやらせない。」
11月9日夜、虎ノ門ホテルオークラ内日本料理屋「山里」での政治評論家(渡邉恒雄早坂茂三中村慶一郎三宅久之屋山太郎ら中曽根派に強い面子)たちとの会合で、内閣改造の話が出た際に倒閣を宣言。この発言から加藤の乱が始まった[2]
中村が内閣参与であったため、加藤の倒閣宣言はすぐに中村から森首相に伝わった。
乱発生後
「私の携帯には菅さんの電話番号が入ってます」
盛んに菅直人鳩山由紀夫との密接な関係をマスコミにアピールしていた。
採決の直前
「これから長いドラマが始まります。」
「100%勝てるが、今回ぼくは首相になれないだろう。次は河野さん(河野洋平外相)かもしれない」(順当度と、自身へのあてつけを意識して)
(17日未明に切り崩しの多数派工作が始まっていた時点での側近議員への電話)
乱の後
「私(加藤)は自民党内部での変革を望んでおり、国民は自民党を超えた政界の変革を望んでいた。これが大きな誤算だった」(『サンデープロジェクト』にて)

周辺の発言や行動[編集]

橋本龍太郎[編集]

11月11日夜、東京・紀尾井町の赤坂プリンスホテルで開かれた主流5派閥の会合にて「加藤は熱いフライパンの上でネコ踊りさせておけばいい」と発言した。

この発言以前にも各有力者が加藤を批判するコメントを出していたが、エスカレートして橋本がこの発言を行った。加藤を応援する側の世論から格好の批判対象となり、主流派の中からもこのコメントに対して下品だと批判が出た。

小泉純一郎[編集]

小泉は衆議院本会議場でこの件について相談を加藤から受けている。その中で小泉は「俺ならもっと早くやっている」と語っており、加藤は小泉の支持(少なくとも個人的支持)は得たと解釈した向きがあった。評論家たちとの夜の会合の後に、マスコミが「加藤決起か!?」と伝えた際にYKKの仲の小泉が本人に確認し「加藤は本気だ」と述べたところから、加藤の決起が本物だということが一気に認知された。

「政策の小泉から、政局の小泉になる」と宣言した小泉は加藤が本気だと知るや森首相の出身派閥である森派の会長に就いていた立場から、マスコミや野中ら党内実力者に「加藤が不信任案に賛成する」と積極的に情報を流し、政策的に対立してきた野中ら党内実力者と連携して加藤派や山崎派、加藤に近い若手らを説得する役割に回り、不信任案に反対した。

加藤、山崎拓とともにYKKと呼ばれていた小泉は一部メディア・TBSテレビの報道番組『ブロードキャスター』で森派の一部とともに離党し加藤と合流するケースを報道していたが現実味は薄かった。

乱後にYKKが初めて同席したパーティーで小泉が「YKKは友情と打算の二重構造」と発言したことが注目を浴びた。笑顔で発言した小泉と苦渋の表情で発言を聞いた加藤・山崎との表情の対比も視聴者に印象を残した。 (後に加藤・山崎共に、小泉がYKK等でなく、あくまでも原点は福田にあり、森派を最重要視する政治家であることを、小泉首相在任中に嫌という程、見せ付けられる。)

野中広務[編集]

橋本派野中広務幹事長は当然、加藤の行動を批判して、切り崩しの先頭に立った。実質的に切り崩し側の総責任者的ポジションとなり、マスコミにも多々出演した。全てが決まる(切り崩し工作が頂点を極める)と言われた不信任提出前の土日の日曜日に北海道の会合に出席するという行動すらとっている(日曜の政治関連番組には中継で出演)。週末以前は「除名」の一本槍で超強気な姿勢を見せていたが、日曜のテレビ発言で条件的に含みを残す発言に変わった(水面下では小里貞利が野中・青木らと交渉を断続的に続けていた)。

かつて野中は加藤が経世会と距離を置くまでは加藤を総理にすると公言してはばからなかった。1996年には加藤が幹事長時代に幹事長代理として補佐し、新進党からの保守系議員の引き抜き工作を行って自民党の衆議院単独過半数の成果を上げた関係であった。しかし、1998年の自民党総裁選で小渕の意向に反する形で加藤が立候補した時から反加藤の立場をとるようになった。

宮澤喜一[編集]

浜田幸一によると、加藤は事前に宮澤喜一から「乱」の了解を得ていたか、煽られていたのだという。ゆえに、その後の宮澤の行動をみると疑問符をつけざるを得ない。 後に、舞台裏の話として、宮崎哲弥宮台真司とのM2対談で宮澤黒幕説を述べている。

前日の宮澤との食事会で加藤がプランを説明すると、宮澤はそれを肯定・後押しするような態度を加藤に取ったというが、浜田・宮崎ソースとも宮澤は加藤に対してはっきりとした言質を与えていなかった点では一致している。

宮澤の政治的な権謀術数を見抜けず、素朴に信頼した点が政治家としての詰めの甘さを露呈したと言える。しかし、その後の議員辞職・出直し後の加藤はその詰めの甘さこそがむしろ加藤自身の魅力あるいは政治的資源に利用しうるリソースであるとの確信を持った。

その証拠に、今まで加藤があまり顧みることの無かった地元の小さな集会や居酒屋などの会合に積極的に参加するようになり加藤は以前にも増して人間の幅が広がったという見方をされている。

民主党・自由党[編集]

自由党党首小沢一郎は11月17日(金曜日)に不信任決議案を提出するよう民主党代表鳩山由紀夫に主張したが、これは週末議員が地元に戻り、後援者から不信任案への対応を考え直すよう説得される危険性が考えられるためだった。

しかし、加藤が土日で逆に派内議員を説得すると主張し、鳩山は11月20日(月曜日)に提出、結果的に土日に切り崩され、加藤派所属衆議院議員の半数は加藤と袂を分かった。

乱失敗後、小沢は「男子じゃないな」とコメントしている[3]

加藤派・山崎派の現役閣僚の動き[編集]

現役閣僚だった山崎派の保岡興治法務大臣と加藤派の森田一運輸大臣は加藤・山崎の倒閣に表立って動けなかったものの、2人は加藤・山崎両派が内閣不信任案に賛成する方針を取った場合、森首相に辞表を提出して不信任票を投ずることも考えていた[4]。結局、加藤・山崎派が欠席戦術に切り替えたため、保岡と森田は出席して信任票を投じた。なお、加藤派の吉川芳男労働大臣は一貫して信任することを貫いた。

その後の内閣改造で上記3人は大臣の地位を解かれている。

執行部の切り崩し工作[編集]

執行部は加藤の同調者への切り崩し手段として、公認権を最大限活用した[5]

野中は内閣不信任案が可決された場合、森内閣に解散総選挙を求めるつもりであった。野中は2000年11月17日に、都道府県連に総選挙の準備を指示している。同時に不信任案の採決に賛成したり欠席したりした議員は除名もしくは公認しないことを決めた。また、小選挙区支部長の「差し替え」、つまり対立候補の擁立も考えていたという[5]

党対党の対決を中心に行われる小選挙区制では党の公認を得られないと無所属で当選するのは難しい。よって、加藤の同調者の多くは動揺し、加藤は同調者を十分集められなかったのである[5]

切り崩し終盤には加藤・山崎に除名届を内容証明郵便で送るなど徹底して除名の意思を崩さなかった。まず、加藤との決別を表明したベテランメンバーの中に宮澤の名前があったことが大きかった。それに続いて、切り崩しが進み形勢が微妙だった時点で加藤の政権構想立案を担当した丹羽雄哉や加藤の側近中の側近と言われた古賀誠が離反したことで形勢は一気に決まった。

結末[編集]

党内の国会議員に同調者が広がらず、ベテラン議員の中に保守本流を自任する自派が党を割ることや野党の不信任案に同調するという禁じ手への不満・不安がある中で、野中を中心とする執行部が除名を強硬に主張して切り崩された結果、加藤の腹心でもある小里貞利総務会長の説得を受け入れ欠席戦術に切り替えた。これを加藤は涙ながらに「名誉ある撤退」と呼んだ。

「大将なんだから」[編集]

加藤派の議員が切り崩された中で、敗北を確信した加藤、山崎と側近議員がその後の対応を協議する場面の一部がそのままテレビで放映された。

途中、加藤・山崎の2人が単独で議場で不信任票を投じに行くと発言する。派閥領袖の単独での不信任投票は自分が起こした倒閣運動には党除名になっても一議員として最終的な責任を全うする一方で、非主流派として冷遇されるまで加藤・山崎に従った議員には党除名という辛酸に合わせないための配慮とされた。その発言に対し加藤派の谷垣禎一が加藤の肩をつかみ「加藤先生、大将なんだから! 1人で突撃なんてダメですよ!」と必死で慰留した。

側近たちの涙ながらの説得に加藤は顔を紅潮し、涙をにじませ、歯を食いしばりながら立ちつくす。加藤派、山崎派は全員で欠席することを確認し、残った議員での派閥の結束力を確認した。

印象的なこのシーンは、加藤の乱を回顧する場合、その挫折を象徴するシーンとして必ず用いられるものであり、谷垣禎一の人物紹介でも欠かせない映像となっている。

派閥の分裂[編集]

この政局の結果、加藤派・宏池会は以下の様に分裂した。

宏池会の源流的存在の宮澤・鈴木・池田らが反対に周り、加藤の有力側近まで反対に周りベテランは追従し、宏池会の大勢は反対が決定的となった。

両グループは2008年に合流するまで双方が宏池会を名乗る異常事態となっていた。

  • また、上記どちらのグループにも属さず、一時無所属、あるいは現在も無所属を通している議員も存在する。

加藤派[編集]

当時、世論の森政権・自民党への支持が極端に低かったことから、加藤への期待感がとても大きかったにも関わらず、離党は拒否し、投票も棄権したことにより逆に加藤への失望感や批判が渦巻いた。

加藤派の人数が大幅に減少し第2派閥から第6派閥に転落したこと、内閣改造と党役員改選によって加藤派の小里貞利が総務会長を離任し、森田一が閣僚離任したことによって、加藤の党内影響力が大幅に低下した。さらに南青山マンション疑惑や秘書逮捕などによって加藤紘一は派閥会長辞任、党離党、議員辞職に追い込まれ、総理総裁候補から完全に脱落した。

議員辞職後の衆院選で議員当選して国政に復帰。自民党に復党し、加藤派の後継である小里派の最高顧問に就任したが、加藤及び小里派の政界影響力には既に限界があった。この様なことから、小里派も派の看板を将来の総裁候補と呼ばれていた谷垣に切り替えた。谷垣は小派閥出身者ながらも小泉内閣で財務相に就任しポスト小泉の一人として認知されるようになった。

加藤が倒閣運動を起こさなければ、派閥分裂は起こらず第2派閥領袖としての地位を保ち、2001年2月のえひめ丸事件を契機となるポスト森において加藤が総理総裁になっていたと見る向きも多い。

山崎派[編集]

一方、山崎派は離脱者は現役閣僚のために身動きが取れなかった保岡興治を除けば実質1人(稲葉大和)に留まり、派閥の結束を党内に知らしめた。乱に参加したこと自体には党内から批判を浴びたものの、小所帯ながらも、かつて鉄の団結を誇った田中派を彷彿とさせる結束に党内から感嘆の声が上がった。

しかしながら、結束は保ったとは言え、加藤の乱以後は内閣改造で保岡が閣僚離任をして山崎派の閣僚が1人もいなくなり、党内での影響力は更に落ち込み窮していた。この間、加藤派との合流や民主党への合流が噂されたが、小泉総裁誕生後は山崎が幹事長、その後副総裁に就任し、主流派となるなど、山崎と山崎派は党内で一定の影響力を維持することに成功した。

橋本派[編集]

主流派・執行部側として乱の沈静化にあたった野中を中心とする橋本派は面目躍如となった。しかし、決議案投票に若手数人が棄権した。鉄の団結を誇るとされた橋本派の足元が最初に揺らいだ場面となった。それまでにも分裂等を経験していた橋本派であったが、それまでの分裂・離脱は派内有力者に引っ張られるケースであった。今回の離脱は、若手自らの意思によるもので派閥の影響力にほころびが見えてきた例となった。

以前からの森の不適切発言が連続し支持率が急落していたため橋本派内では森擁護の意欲が薄れていた。加藤の乱自体は徹底して沈静化したものの、乱沈静化最中に既に橋本派内で森政権維持を断念・拒否したとすら見られる動きが出ている[6]。乱後は森政権から距離を置き始め、ポスト森を模索するようになった。これに小泉が激怒して当初は勝ち目のないと言われた総裁選出馬へ向かう事になる。

森喜朗[編集]

もしこの加藤の乱が成功して内閣不信任決議可決が確実となった場合、森喜朗は衆議院解散をせず内閣総辞職し、加藤に政権を渡す予定だったとされる。

不信任の対象となっていた内閣の首相だった森は2001年に内閣総辞職するも、次の首相には自派閥出身の小泉純一郎が選出され、派閥会長と後見人という立場で党内影響力を維持し、自ら率いる派閥(森派)も小泉政権下で主流派として党内で確実に勢力を伸ばし、後に2005年衆議院選挙で当時の最大派閥であった橋本派を抜いて最大派閥に躍り出ることになる。

政策よりも党内の和を最も重視し、それによって出世したともいえる森は、後々までこの加藤の乱に対しての遺恨を持っており、2007年9月に発足した福田康夫政権の幹事長に谷垣禎一を起用することに反対したとされ、乱の森へ与えた影響の大きさが垣間見える。

ただ、乱より8年後の2008年6月9日、都内の日本料理店で加藤と会食した。席の上で、加藤は「あの時は迷惑を掛けました」と謝罪し、森と握手して和解している。

不信任決議案における投票行動[編集]

賛成(190人)[編集]

反対(237人)[編集]

欠席(50人)[編集]

退場(1人)[編集]

本会議に欠席した自民党議員[編集]

宏池会(加藤派)[編集]


近未来政治研究会(山崎派)[編集]


平成研究会(橋本派)[編集]


無派閥[編集]


備考[編集]

マスコミの反応[編集]

マスコミやマスコミの言うところの国民にとって、最も「分り辛い」点として、現内閣への内閣不信任案に同調しながらも、離党は絶対にしないというロジックが乱中に何度も取り上げられ、加藤本人への突っ込みでも何度も使われた。加藤本人は、「過去に自民党を改革しようとして離党した人たちが度々いたが、一時の盛り上がりだけで、毎度いずれエネルギーを失ってしまっている。結局、改革に繋がらない行動になっている。だから、私たちは中でやる。」という主張を度々繰りかえしたが、マスコミには「それでも分り辛い」と評されていた。

本会議場でのコップ水事件[編集]

本会議の演説において松浪健四郎議員が野次に激昂し、壇上からコップの水を掛けるという事件が起こった。

加藤の乱で揺れていた森内閣不信任案決議で、保守党を代表して反対討論を行っている最中、民主党議員から野次られた(松浪本人は暴言を吐いたのは永田寿康であると主張したが、当人は否定している)ことを理由に国会の壇上から永田に目掛けてコップを浴びせた。野次の内容は「おまえ、党首(扇千景)と何発やったんだ」と言った蓋然性が高いとされているが、松浪自身が否定している。

水掛けの直後、抗議する野党議員が一斉に演壇に押しかけ大騒ぎとなり、あまりの音量に松浪は耳をふさぎながら早口で草稿を読み上げ演壇から降りた。松浪はこの場で議場からの退場の処分を下され、のちに登院停止処分を受けた。

勘違い?[編集]

2007年6月29日、衆議院に安倍内閣不信任決議案が提出された際、加藤は賛成を意味する白票を持って壇上に上がった。「加藤の乱」の再発かと一時危惧されたが、加藤は白票を渡す直前にあわてて自分の席に戻り反対を意味する青票に持ち替えた。

本人曰く、与党議員は法案の採決でよく白票を使うために起きた単なる勘違いであったとのことだが、「本音は賛成だったのではないか」という周りの声もある。

脚注[編集]

  1. もし離党に至った際に、加藤派自体《特にベテラン》がついてこないとの計算があったと言われる。派内説得にあたる際も、再三「離党」は絶対に無いと説得している。また、加藤には保守本流という自負が強く、自民党自体を否定していた訳ではない。保守本流の自負心が強いのは他の宏池会ベテランにも言えることなので、離党が派内事情的に非現実的であるという認識があった。
  2. ここが計画的なものだったのか、評論家たちに煽られて突発的に言ったものなのかが真相が明らかになっていない。
  3. 小沢は1993年の内閣不信任決議採決において派閥を率いて不信任票を投じ、その直後の解散総選挙において自民党を離党し、非自民政権を樹立させている。
  4. 過去には1993年の嘘つき解散時の不信任決議採決で2閣僚が辞表を提出した上で不信任票を投じた例がある。
  5. 5.0 5.1 5.2 竹中治堅 『首相支配--日本政治の変貌』 中央公論新社中公新書〉、2006年5月25日、135-136頁。ISBN 4121018451
  6. 「乱そのものは徹底的に鎮圧するが、決して森内閣を今後も支援していくわけではない」といったニュアンスの発言が橋本派幹部から多々出ていた。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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